人質立てこもり事件の多くは、暗く見慣れた筋書きどおりに進む。警察が建物を包囲する。交渉人が持ち場につく。電話越しに要求が伝えられる。食べ物、金、移動手段、あるいは安全な逃走経路。細部は違っても、たいていこの手の話は陰鬱で予測がつく。
だが、マーシャル・レッドベターは違った。
1991年6月14日の早朝、フロリダ州立大学の学生だったレッドベターは、タラハシーにあるフロリダ州議会議事堂に侵入し、フロリダ州上院のSergeant at Armsであるウェイン・トッドの執務室に立てこもった。[1] 警察は、彼が武器を持っているのか、それとも人質を取っているのか確信を持てていなかった。こうして、ただの侵入事件として始まったものが、たちまち本格的な警察とのにらみ合いへと変わった。
そして、要求が次々と伝えられ始めた。
その内容は、ピザ。ビール。たばこ。中華料理。マリファナ。警察のためのドーナツ666個。さらに、Ice Cube、Timothy Leary、MotörheadのLemmyとの電話だった。[1]
だが、彼はそのどれひとつ手に入れられなかった。
それでもなぜか、この一件は平和的に終わった。[1]
ただの侵入事件であることを拒んだ議事堂侵入
この場面には、ほとんど小説のような趣がある。夜明け前の州議会議事堂。政府庁舎の一室にいる若い男。外には、自分たちが何を相手にしているのか完全にはつかめていない警察。そして、人々が立てこもり事件に期待する冷たく実務的な要求の代わりに現れたのは、犯罪の取引材料というより、不条理なバラエティ番組を現実にねじ込もうとしている人物の発想のようなリストだった。
この落差こそが、この話を忘れがたいものにしている。一方では、これは現実の、しかも十分に危険になりえた警察案件だった。法執行機関は、レッドベターが武器を持っているのか、あるいは彼のそばに別の誰かがいるのかを知らなかった。[1] だが他方では、事態はすぐに奇妙さと滑稽さ、そして妙に具体的な世界へと流れ込んでいった。
警官向けにドーナツ666個というのは、作り話がうまく思いつくような種類のディテールではない。ちょうど正しい意味で妙すぎるのだ。そして現実とは、しばしばそういう形で自らの正体を明かす。
マーシャル・レッドベターは、もともとこういう話が起きるタイプの人物だった
レッドベターは、典型的な政治活動家ではなかったし、単なる風変わりな公的人物として記憶されているわけでもない。彼は写真家で、サイケデリック愛好家で、型破りな抗議者でもあった。フロリダのカウンターカルチャーの中を、後になって何年も語り継がれるような話を生みがちな種類のエネルギーをまとって動き回る人物だったのだ。[1]
これは重要だ。というのも、議事堂での立てこもりは真空から突然生まれたわけではないからだ。それは、ある種のアメリカ的人物像にぴたりとはまる。いたずら者であり、挑発者であり、本気の異議申し立て者でもある。権威に反対するだけではなく、権威の側がどう扱っていいかわからないスタイルでそれをやり抜こうとするタイプの人間だ。
警察は危険にどう対処するかを知っている。官僚機構は要求にどう応じるかを知っている。だが、独自のユーモア感覚を備えた演劇的な混沌に対しては、そこまで準備ができていない。
要求リストそのものが、ひとつのパフォーマンスだった
もう一度そのリストを見てみると、輪郭が浮かび上がってくる。いくつかの要求は、立てこもりの定番的な快適さの範疇にある。食べ物、飲み物、たばこ。別のものは、対抗文化的な願望充足の方向へ傾いている。マリファナ、Timothy Leary、Lemmy。そこにIce Cubeが加わることで、より哲学的というよりポップカルチャー的で、より同時代的で、よりいたずらっぽい層が生まれる。そして警察向けのドーナツ666個がある。これは交渉というより、舞台指示のように感じられる。[1]
このリストを記憶に残るものにしているのは、要求が奇妙だったということだけではない。そこに選び抜かれた感じがあることだ。空気を作り出している。まだ本人に会う前から、中にいる男がどんな人間なのかを伝えてくる。ただ不安定なだけでも、ただ反抗的なだけでもない。国家との対決を、妙におかしな反体制演劇へと変えることに本気の人物なのだ。
だからといって状況が無害になるわけではない。だが、奇妙なほど理解しやすくはなる。レッドベターはヘリコプターでの逃走を求めていたわけではない。彼は彼なりのやり方で、公権力の機械装置に自分の世界観への参加を強いようとしていた。
なぜ要求はひとつも満たされる必要がなかったのか
この話で最も鋭いディテールのひとつは、要求がひとつも認められなかったことだ。[1] ピザもない。ビールもない。有名人との電話もない。警察向けの悪魔的テーマの菓子配達もない。それでも、にらみ合いは平和的に終わった。
この一点が、この話を単なる色鮮やかな逸話で終わらせない。どれほど突飛な要求リストであっても、それは最初から本当の目的ではなかったのかもしれないと思い出させる。多くの立てこもりで、要求は道具だ。だがここでは、それは表現であり、パフォーマンスであり、時間稼ぎであり、アイデンティティでもあったように見える。もしかすると、事態がいかにも陰鬱なものになるのを拒むことで、その場の感情の温度をコントロールする手段ですらあったのかもしれない。
言い換えれば、このリストは欲しいものを手に入れるためというより、出来事そのものを定義するためのものだったのかもしれない。
国家対不条理
政府の建物は、深刻さを投影するように設計されている。それが主要な機能のひとつだ。建築がそのまま権威になっている。床、廊下、執務室、審問室、そのすべてが同じことを語る。秩序はここに住んでいる、と。
だからこそ、州議会議事堂がジャンクフードや酩酊物質、ロックスターとの電話を中心に回る立てこもり事件の舞台になるのは、ひどくぎょっとさせられる。象徴がひっくり返るのだ。建物は依然として国家権力を表している。だがその内部では、数時間のあいだ支配的だったのは手続きではない。不条理だった。
このエピソードが長く残った理由の一部は、おそらくそこにある。これはただの立てこもりではなかった。政府の座が、ほんのひとときとはいえナンセンスに対して脆く見えてしまった立てこもりだった。そして官僚制が、ナンセンスを本気で相手にさせられることほど嫌うものはそう多くない。
なぜこの話は生き残ったのか
奇妙なローカルニュースはたくさん消えていく。だがこれは消えなかった。高い緊張感、滑稽なディテール、現実の制度、見覚えのある文化的な名前、そして何より平和的な結末という、めったにないバランスを備えていたからだ。[1] もしこのにらみ合いが流血で終わっていたら、ジョークは嫌なものに変わっていただろう。何も変なことが起きなければ、誰も覚えていなかっただろう。その代わり、この話は危険と不条理が民間伝承になるのに十分な長さだけ共存する、あの狭い地帯に着地した。
また、この話が生き残ったのは、1990年代初頭のアメリカに特有の質感を見事に捉えているからでもある。Timothy Leary。Ice Cube。Lemmy。ウィード。悪魔めいた数字を付されたドーナツ。それは、政治、ドラッグ、音楽、いたずら者の見世物が全部ぼやけながら混ざり合う、20世紀後半の反抗心を寄せ集めたコラージュのように感じられる。
そしてそのコラージュの真ん中に、州のオフィスにいる若い男が立っている。警察や政治家たちに、たとえほんの短いあいだでも、自分たちとはまったく違う論理で動く現実に向き合うことを強いているのだ。
平和的な結末こそが、いちばん奇妙な部分だ
この話全体でいちばん奇妙なのは、要求内容ですらないのかもしれない。むしろ結末かもしれない。武器や人質をめぐる不確実さがあり、全体としてきわめて不安定だったにもかかわらず、このにらみ合いは平和的に終結した。[1]
これは重要だ。物語の感情的な調子そのものを変えてしまう。不条理が、ただ悲劇の前触れになるのではなく、不条理のままでいられる。それによってこの出来事は、奇妙な脚注つきの大惨事としてではなく、ひとりの男の風変わりな抗議衝動と、国家権力の完全な象徴的重量とが衝突した奇妙な瞬間として記憶できるようになる。
そしておそらく、それこそが今でもこの話が語られる理由なのだ。あの朝、マーシャル・レッドベターが何かを勝ち取ったからではない。彼は何も勝ち取っていない。州議会議事堂が折れたからでもない。折れていない。だが1991年6月のある奇妙なひと区切りのあいだ、フロリダ州議会議事堂は、ピザとポットとロックスターと、警官向けのドーナツ666個を欲しがる立てこもり学生の要求を中心に回らざるをえず、それでも結局、誰ひとり死なずに終わったのだ。






