難破した病院船ロヒラ号にまだ残っていた人々は、二晩にわたって助けを待ち続けていた。そこへ救命艇が沖合で止まり、海に油を注ぎ始めた。1914年11月1日、ウィットビー近くの船には50人が残っていた。救助隊はすでに、1隻の艇を防潮壁の向こうへ引き上げ、別の1隻を崖から下ろしていた。タインマスからやって来た乗組員には、難破船に近づく助けとなるエンジンと、砕ける波の中を進みやすくするための油があった。[1]
その2日前、ロヒラ号は負傷者を英国へ連れ帰るためダンケルクへ向かう途中で岩礁に衝突した。船にいた229人の中には医療スタッフと5人の看護師がおり、今度は自分たちが救助を必要としていた。ウィットビーの救命艇の艇長トマス・ラングランズは荒れた海を進んで近づくことができず、第2号救命艇を高さ8フィートの壁の向こうへ引き上げ、岩だらけの岸に沿って引いていくよう指示した。艇は進水する前から損傷していたものの、難破船まで2往復して35人を連れ帰った。その後、岩に打ちつけられ、もはや使えなくなった。[1]
次に向かったアプギャングの救命艇ウィリアム・ライリー号は、町と畑を通って運ばれ、ロープで崖から下ろされた。乗組員は難破船から50ヤードのところまで近づいたが、押し戻された。岸では人々が砕ける波の中へ歩いて入り、船から飛び降りた人や波にさらわれた人を助けていた。土曜の午後までには、救援要請がタインマスに届いていた。戦争のため沿岸の灯りが消されている中、動力救命艇の乗組員は嵐と闇を突いて44マイルの航海に出た。[1][5]
ウィットビーに到着すると、バジル・ホール海軍大尉が艇に油を積み込ませ、難破船への接近に同行した。RNLIはその年、砕ける波を弱める方法を探り、8か所の救命艇基地で油の実験を行っていた。船乗りには油を少しずつ放出する簡単な方法もあった。シーアンカーの索に吊るした帆布の袋に小さな穴を開ければ、そこから魚油をしみ出させることができた。[1][2][4]
油は薄い膜となって広がると、海面の波を減衰させる。かつて救命艇の装備に植物油や魚油が含まれていたのはこのためだ。ただし、どのような海でも効果を当てにできるわけではなかった。RNLIは後の評価で、激しい砕波に対する効果は不確かだとした一方、ロヒラ号の救助隊が難破船に横付けする際には油が役立ったと認めている。[2][3]
その日曜の朝、乗組員は油が流れに乗って座礁船へ向かう場所で油を放出した。RNLIが転載したヨークシャー・ポスト紙の記者の報告によると、船橋の周りの水面は穏やかに波打つようになったという。その状態が続く間に、救命艇は船尾を回り込んで難破船の波が当たりにくい側に入り、生存者が降りてこられる距離まで近づいた。人々が急いで乗り込む間にも波はすでに再び高くなりつつあり、作業が終わる前に2つの波が救命艇を越えて押し寄せた。乗組員は50人全員を船から救出し、船長が最後に船を離れた。[1]
ウィットビーの岸壁では、町の人々が毛布と紅茶を用意して待っていた。生存者の多くは裸足で上陸し、二晩にわたって海上で波にさらされた後もパジャマ姿のままの人がいた。彼らが艇から上がってくる中、記者は小さな黒い子猫を肩に乗せた船員に気づいた。[1]
出典
- RNLI:汽船ロヒラ号の遭難
- RNLI:砕ける波を弱めるための油の利用
- NOAA:状況によっては船が意図的に油を流すことがある
- ロイヤル・ミュージアムズ・グリニッジ:油袋、EQA0088
- RNLI:ロヒラ号をしのんで
画像:2024年のプール救命艇フェスティバルで、手前に写る修復済みのウィリアム・ライリー号。この艇は救助活動中に崖から下ろされたアプギャングの手こぎ救命艇であり、最後の50人を救出したタインマスの動力救命艇ではない。撮影:Geof Sheppard / Wikimedia Commons, CC BY-SA 4.0。トリミングとサイズ変更を実施。この二次的著作物も同じライセンスで共有されている。




